第2話:一角の漆黒〜黒曜石という宝物

日本史

波の音が絶え間なく岩肌を打つ。青年ハルは、渚に立ち尽くし、遥か沖合いに霞んで見える一つの島影をじっと見つめていた。今からおよそ三万八千年前、まだ名もなきその島は、海の彼方に静かに浮かんでいた。伝え聞くところによれば、あの島には、太陽の光を吸い込んだような漆黒のガラス質の石——「黒曜石」が眠っているという。それは、いかなる石よりも鋭く、いかなる獣の皮も切り裂く、まさに神の贈り物であった。

第一章 鈍る刃、募る焦り

ハルは一族の中でも指折りの石器職人だった。だが近頃、集落を悩ませているのは、狩りに使う石器の切れ味だった。手に入る石はどれも粒が粗く、獲物を仕留めても皮を裂ききれず、肉を分けるにも骨が折れる。冬を越すための蓄えが思うように増えず、老いた長老たちの顔にも焦りの色が濃くなっていた。

「昔、はるか南の海に浮かぶ島から、恐ろしく鋭い黒い石が流れ着いたことがある」

火を囲んだ夜、年老いた漁師のオトが、しわがれた声で語った。その黒い石で作った槍は、ひと突きで大きな獲物の急所を貫いたという。しかし、その島へ渡った者は誰一人として戻らなかった、とも。潮の流れは荒く、海は容赦なく人を飲み込む。それでも、ハルの胸の奥には、抑えがたい衝動が湧き上がっていた。今のままでは、いずれ一族は飢える。あの黒い石さえ手に入れば——。

「オト、俺を連れて行ってくれ」

ハルの言葉に、オトは長い沈黙のあと、静かに頷いた。「命の保証はできんぞ」。それでもハルの決意は揺らがなかった。仲間の若者ふたりも名乗りを上げ、四人は丸太を刳り抜いた小さな舟を用意し、荒々しい海へと漕ぎ出す支度を始めた。

出発の前夜、ハルは幼い妹に頼まれて彫った小さな骨の髪飾りを握りしめ、眠れぬまま焚き火の炎を見つめていた。もし自分が戻れなければ、あの黒い石の噂は、また誰かが命を賭けて確かめに行くことになるのだろう。それならば、自分がその一歩を踏み出したい——恐れよりも、そんな想いの方が強かった。母は何も言わず、ただ温かい獣皮の外套をハルの肩にそっとかけてくれた。その手のぬくもりだけを胸に刻み、ハルは静かに夜明けを待った。

第二章 黒潮を越えて

夜明け前、四人を乗せた粗末な舟は、暗い海へと滑り出した。櫂を握る手のひらに、たちまち血の滲む痛みが走る。潮の流れは想像以上に荒く、舟は木の葉のように波に翻弄された。オトが叫ぶ。「流されるな! 島の稜線を見失うな!」ハルは歯を食いしばり、必死に櫂を漕ぎ続けた。

昼を過ぎた頃、突如として空が暗くなり、大粒の雨とともに強い風が吹きつけた。舟が大きく傾き、若者の一人が海へと投げ出されそうになる。ハルは咄嗟にその腕を掴み、渾身の力で引き戻した。舟に張り付いた水を掻き出しながら、誰もが声にならない叫びを上げていた。死は、すぐ隣にあった。それでも、島影は少しずつ、確かに近づいていた。

嵐が過ぎ去った頃、疲労困憊の四人の前に、切り立った黒い岩肌の島がついに姿を現した。上陸するや否や、ハルは崖の斜面に、燃え尽きた炭のように黒く輝く石の塊を見つけた。手に取ると、割れた断面が刃物のように鋭く光っている。震える手でそれを掲げ、ハルは思わず声を上げた。「これだ……これがオトの言っていた石だ!」

若者の一人が歓声を上げて駆け寄ろうとした瞬間、足元の岩がぐらりと崩れ、彼の体が斜面を滑り落ちかけた。ハルは咄嗟に飛びつき、崩れる岩の隙間から相棒の腕をしっかりと掴んだ。「離すな……絶対に離すな!」歯を食いしばりながら引き上げる。ようやく安全な場所まで這い上がったとき、二人とも荒い息を吐きながら、無言のまま互いの肩を強く叩き合った。この島は、宝を与えると同時に、決して人を容易くは許さない場所でもあった。

第三章 刃を研ぐ夜

限られた時間の中、四人は崖を這うようにして黒曜石の塊をいくつも集め、舟に積み込んだ。帰りの海もまた過酷であったが、行きの経験が彼らを幾分か強くしていた。命からがら集落へと戻り着いたとき、迎えた仲間たちの歓声が浜辺に響き渡った。

その夜、ハルは焚き火の傍らで、持ち帰った黒曜石を丁寧に打ち割っていった。パキン、と澄んだ音とともに剥がれ落ちる薄い破片は、これまで見たどの石よりも鋭く、指先をかすめただけで血が滲むほどだった。仕上げられた槍先を手にしたハルの目に、確かな誇りが宿った。

翌朝、その槍で一族は大きな獲物を仕留めることに成功する。皮は驚くほど滑らかに裂け、解体の手間は半分にまで減った。獲物を囲んで喜ぶ仲間たちの輪の中、母はハルの持ち帰った髪飾りを妹の髪に結びながら、静かに涙を浮かべていた。誰も口には出さなかったが、命を懸けて海を渡った意味を、一族の誰もが噛みしめていた。

この日を境に、命がけで海を渡り黒曜石を求める者たちが、少しずつ現れるようになっていく。やがてその技術と経路は語り継がれ、遠く離れた土地の人々の間でも黒い石が交わされるようになっていった。名もなき島は、いつしか人々の間で「黒い宝の島」と呼ばれるようになった。


史華のワンポイント解説

みなさん、お越しやす。京史華でおす。第2話、手に汗握る海の冒険、いかがどしたやろか。

このお話の舞台は、伊豆諸島の神津島どす。実は神津島の黒曜石、なんと本州や関東地方、遠くは近畿地方の遺跡からまで見つかっとりますのや。神津島から本土までは、直線距離でも約40キロメートル。しかも黒潮という世界有数の激しい海流が横たわる、大変な難所どす。それを後期旧石器時代の人々が、丸木舟のような素朴な舟で渡っていたという事実に、私はいつも胸が熱くなりますのや。

これは日本列島だけやのうて、世界的に見ても最古級の「計画的な航海」の証拠のひとつと言われとります。海を渡って石を取りに行くなんて、古代人の探究心と勇気には本当に頭が下がりますえ。命がけの「交易」の始まり、その原点がここにありますのや。

次回は野尻湖畔、ナウマンゾウに挑む狩人たちの物語をお届けしますえ。どうぞお楽しみに。

コメント

タイトルとURLをコピーしました