第二章:犯人の生い立ちと疎外
血である。
全ての因果は、血脈という名の見えざる管を通り、世代を超えて受け継がれていく。
才能が遺伝するように。
容貌が似通うように。
呪いもまた、血の内に潜み、時が来るのを暗い淵でじっと待ち受けているのだ。
都井睦雄。
一夜にして三十の命を刈り取ったこの青年は、村落という機構の歪みが生み出した鬼子であると同時に、血の因果に絡め取られた哀れな生贄でもあった。
彼の両親は、彼がまだ物心つく前にこの世を去っている。
死因は、肺結核。
当時は「労咳」と呼ばれ、死を約束する不治の病として、人々から忌み嫌われていた病魔である。
親から子へ。
その白き死の影は、すでに睦雄の肺葉の奥深くに、微小な胞子のように産み付けられていたのかもしれない。
否、病魔だけではない。
「結核患者の血筋」という、村という共同体において最も忌避される「穢れ」の烙印すらも、彼は生誕と同時に背負わされていたのだ。
両親を失った睦雄は、祖母の手に引き取られ、育てられた。
この祖母の存在が、彼の運命の歯車を狂わせる最初の楔となる。
祖母は、彼を溺愛した。
不憫な孫への憐憫。あるいは、自らの血を分けた唯一の痕跡を失うことへの病的なまでの恐怖。
その愛は、常軌を逸していた。
愛ではない。それは執着であり、過保護という名の呪縛であった。
睦雄が少しでも外で遊べば、病気に罹るのではないかと恐れて家に閉じ込めた。
彼が尋常高等小学校(現在の登校・進学に相当する)への進学を希望し、教師がそれを勧めても、祖母は「私を一人にする気か」と泣き喚き、これを断念させた。
優秀であったという。
彼には、知能があった。村という狭小な世界を飛び出し、都市の学校で学び、別の機構の中へと組み込まれるだけの素質が、確かにあったのだ。
だが、祖母の涙という形を変えた鎖が、睦雄の両足を貝尾の泥濘に深く縛り付けた。
境界は、かくして引かれた。
外の世界へ繋がる扉は、彼を最も愛する者の手によって、硬く閉ざされたのである。
それでも、若き日の睦雄には、まだ微かなる陽光が差し込んでいた。
学業を断たれた彼は、自室に引きこもり、書物を読み耽った。
近代の文学、雑誌、そして村の古老たちが語る伝承。
彼は知識を吸収し、それを村の子供たちや、時には同年代の若者たちに語って聞かせることで、己の存在意義を確立しようとした。
弁が立ち、知恵の回る睦雄は、一時期、村の中で「賢い青年」としての居場所を得ていたのだ。
そして、彼もまた、村の掟である「夜這い」の風習に身を投じていく。
夜の帳が下りる。
闇が、村の輪郭を曖昧に溶かし、昼間の顔と夜の顔を反転させる。
睦雄は、数多くの女たちの寝所へ忍び込んだ。
受け入れられた。
彼は男としての矜持を満たし、村という共同体の「血の循環」の一部として、確かにそこに存在していた。
だが。
潜んでいた呪いが、ついに牙を剥く。
昭和十二年。事件の前年である。
睦雄は激しい咳とともに、鮮血を吐き出した。
喀血。
畳に散った赤黒い染みは、彼の中に潜んでいた「血の因果」が実体化した証であった。
肺結核。
両親を死に追いやった白き死神が、ついに彼自身の胸倉を掴み上げたのだ。
村の空気は、一瞬にして凍りついた。
いや、凍りついたのではない。元より存在していた冷酷なる排他の機構が、静かに、しかし確実な音を立てて作動し始めたのである。
結核は、感染する。
それは死の病であると同時に、家を滅ぼす穢れである。
村人たちの態度は、鮮やかに反転した。
昨日まで彼に笑いかけていた者たちが、道で擦れ違うことすら避け、遠巻きに冷たい視線を送るようになる。
言葉を交わす者はいない。
彼が歩いた後の土すらも、病魔に侵されているかのように忌避される。
そして、決定的なる烙印が彼に押される。
徴兵検査である。
時代は、屈強な兵士を求めていた。
国家という巨大な機械を動かすための、頑強な歯車。戦地で散るための、健康な肉体。
それこそが、当時の大日本帝国において「男」が「人」として認められるための、唯一絶対の条件であった。
検査の結果は、丙種合格。
事実上の不合格である。
それは単なる身体検査の結果ではない。「貴様は、お国のために死ぬ価値すら無い、不良品の肉塊である」という、国家からの非情なる宣告であった。
村の基準は、国家の基準と同期する。
甲種合格の印を貰い、赤紙を待つ若者たちは、村の誇りとして英雄のように扱われる。
それに引き換え、睦雄はどうだ。
死の病を抱え、軍隊にも入れず、ただ村の空気を汚染しながら死を待つだけの、無用な穀潰し。
生ける屍である。
彼は、戸籍の上では生きていながら、村という共同体からは完全に「死者」として扱われるようになったのだ。
村八分。
この言葉の真の恐ろしさは、物理的な暴力にあるのではない。
存在の透明化である。
居るのに、居ないものとされる。
声を発しても、誰の鼓膜にも届かない。
手を伸ばしても、誰も触れようとはしない。
その疎外感は、人間の精神を内側から腐らせる猛毒である。
とりわけ彼を苦しめたのは、女たちの変節であった。
かつて、夜の闇の中で彼を受け入れ、甘い吐息を漏らしていた女たち。
彼女らは、誰よりも早く、そして誰よりも残酷に、睦雄を切り捨てた。
「あの男は、労咳だ」
「兵隊にも行けない、不具者だ」
女という生き物は、本能的に「死の匂い」を嫌悪する。
より強い種を、より価値のある男を求める。
彼女らは睦雄を拒絶し、甲種合格を受けた健康な男たちの腕の中へと、躊躇うことなく鞍替えしていった。
想像してみるが良い。
己は死の恐怖に怯え、孤独な部屋で咳き込んでいる。
そのすぐ壁の向こうで。数メートル先の闇の中で。
かつて自分を抱きしめた女が、自分を嘲笑った別の男と、夜の掟に従って交わっているのだ。
軋む床の音。
押し殺した嬌声。
それは、睦雄の鼓膜を突き破り、脳髄を直接切り刻む、地獄の責め苦であった。
嫉妬。絶望。屈辱。
それらの昏い情念が、るつぼの中で煮詰められ、真っ黒なタールのように彼の心を覆い尽くしていく。
精神の均衡が、崩れる。
否、崩れたのではない。
狂気という名の鋳型に流し込まれ、新たな形へと再構築されていったのだ。
認知が、歪む。
彼の中で、論理のすり替えが起こる。
「自分が病気だから、皆が離れていくのではない」
「自分を蔑み、排除しようとする、この村の連中こそが、腐っているのだ」
「自分は被害者だ。あの淫売どもと、自分を無価値と切り捨てた村のシステムこそが、絶対的な悪なのだ」
被害妄想と呼ぶのは容易い。
だが、その妄想を育んだのは、間違いなく貝尾という村の排他性であり、ムラ社会の持つ陰湿な同調圧力である。
彼は、己を正当化した。
己を、この腐りきった村の因習を断ち切るための、神ならぬ裁定者へと昇華させたのだ。
病魔に侵され、日に日に痩せ細っていく肉体とは裏腹に、彼の中で「殺意」だけが、異様なまでの熱を帯びて肥大化していく。
もはや、彼と村とを隔てる境界は、修復不可能なまでに断絶していた。
言葉による対話は成立しない。
通じ合うのは、ただ一つ。
死という、絶対的で平等な現象のみ。
どうせ死ぬのだ。
労咳に肺を喰い破られ、誰にも看取られず、無惨に血を吐いて死ぬのなら。
自分を透明な屍として扱ったこの村の連中を、道連れにしてやる。
自分を拒絶した女たちの、その美しい喉笛を切り裂いて、同じ血の海に沈めてやる。
夜の帳の奥深くで、青年は己の死装束を縫い始めた。
猟銃の銃身をノコギリで切り詰め、隠し持ちやすいように改造を施す。
日本刀を、砥石で執拗に研ぎ澄ます。
その冷たい金属音は、彼自身の張り詰めた神経の悲鳴であったかもしれない。
彼は、三十数名に及ぶ「標的」のリストを、脳内に書き出していった。
誰から殺すか。どう殺すか。
そこに迷いはなかった。
あるのはただ、純粋で、透明な、氷のように冷たい殺戮への意志のみ。
村八分という疎外の機構が生み出した怪物は、もはや人間の心を持っていなかった。
怨念という名の憑物が、完全に彼の精神を乗っ取ったのである。
あとはただ、血塗られた夜明けを待つばかりであった。


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